村山輝星さんの父親・村山浩一さんは、トライアスロンの選手で、中野区トライアスロン協会の理事も務めていました。
きらりちゃんが2歳の時に病気で亡くなり(享年35歳)、病名や死因は非公開ですが、胸の傷から心臓病だった可能性が考えられます。
この記事では、村山輝星さんの父親・村山浩一さんの死因について、病名や時期、闘病期間などを調査しました。
職業としてスイミングスクールも経営していた父親の性格・顔画像、遺言や、村山輝星さんのこれまでのトライアスロン成績もご紹介します!
村山輝星(きらり)の父親の死因は心臓病?
村山輝星さんの父親・村山浩一さんが亡くなった病気については、死因や病名は明らかにされていません。
2022年8月6日放送の24時間テレビ45『愛は地球を救う』では、村山輝星さんが2歳の時に病気で亡くなったということだけを明かしています。
ですが、父親・浩一さんの画像から心臓病も死因であった可能性があることが分かりました。(断定するものではありません。あくまで可能性です。)
胸に手術痕?2008年以降に胸の手術をしていた可能性
父親・浩一さんの画像を見ると、胸の中央部分に大きな傷跡のようなものが見られます。
断定はできませんが、これが手術痕だとすると、心臓手術を行っていた可能性が考えられます。
外科手術では胸の真ん中の胸骨を切開して行う開胸手術(胸骨正中切開)が基本です。いろんな状況に対応可能で、ほぼ全ての心臓手術を行えるからです。
出典:MEDICA
これが事実なら、死因は心臓病であった可能性も考えられますね。
そして、こちらの画像。
これは村山輝星さんの母親・紘子さんとトライアスロンの大会に出た時の画像だと思われます。
父親・浩一さんの胸には傷がありませんよね。画像が撮られた時期はいつなのでしょう。
母親の紘子さんのシャツに書いてある文字を見ると、「15th ROTA BLUE TRIATHLON」とあります。
これは2008年11月にロタ島(グアムとサイパンの中間にある島)で行われたトライアスロンの大会です。
もう一度画像比較すると、やはり2008年11月時点では傷跡はありません。
ですので、死因が心臓病だとすると父親・浩一さんは、2008年11月以降に病状が悪化して手術されたのだと考えられます。
病気の進行は早かった可能性も(享年35歳)
村山輝星さんの父親・浩一さんが亡くなったのは2012年頃(享年35歳)です。
2008年11月には大会に出られている状態だったことを考えると、4年間の間に病気が進行したのだと考えられますね。
いつから闘病していたかは不明ですが、2012年4月1日開催の「第14回Lafuma青梅高水山トレイルラン」に、父親・浩一さんの名前と年齢(35)が載っていました。
『DNS』とは、『Do Not Start(スタートできない)』という意味なので、申し込みしたものの参加できなかったことがわかりますね。
大会の申し込み期間は、2011年9月15日~ 2012年1月16日でした。
大会に申し込みしているところを見ると、少なくとも2011年9月以降にはスポーツをする状態にはなかったということでしょうか。
死因と推測される心臓病は進行性の病気です。
一般的に若い人ほど進行が早いことが多いようですので、父親・浩一さんの闘病期間も短いものだったのかもしれません。
きっと幼い子供を残していくのは、相当辛かったでしょうね。
父親は元トライアスロン選手!スイミングスクール経営も
中野区トライアスロン協会理事だった
村山輝星さんの亡くなった父親・村山浩一さんは、中野区トライアスロン協会の理事を務めていました。
記録によると、2008年に中野区トライアスロン協会の地域代表者になったようです。
父親・浩一さんは亡くなるまでの4年間、中野区トライアスロン協会の理事を務めていたんですね。
村山輝星さんの父親・浩一さんが亡くなった4年後の2016年2月の議事録では、次のように記載されています。
中野区トライアスロン協会の理事長、村山紘子さんが、『故村山浩一の遺志を引き継いでトライアスロンの活動をする』と、挨拶したようですね。
2022年8月14日の「行列のできる相談所」(日テレ系)にて、村山輝星さんの母親の名前は村山紘子さんであること放送されています。
同姓同名の別人という可能性もありますが、名字が同じなことや、遺志を引き継ぐという発言から、本人である可能性が極めて高いですね。
村山紘子さんは画像からも分かりますが、トライアスロンをやっていたようです。
競技がきっかけで出会った可能性も考えられますね。
父親・浩一さんは、亡くなる年の大会までトライアスロンの選手をしていましたし、中野区トライアスロン協会の理事をしていたので、かなり本気でトライアスロンと向き合っていたことがわかりました。
日本では1981年の鳥取県の大会が、トライアスロンの始まりだと言われています。
そこまで日本での歴史は深くないので、村山輝星さんの父親・浩一さんは、日本のトライアスロン創成期を支えていたのではないでしょうか。
村山輝星さんの母親についてはこちら記事で:村山輝星(きらり)の母親は技術者!富士通で特許も取得していた
職業はスイミングスクールの経営?
村山輝星さんの父親・村山浩一さんは、中野区トライアスロン理事長や、選手以外にスイミングスクールの経営の仕事をしていた可能性があります。
名前・住所・電話番号が一致しているので、父親・浩一さんは職業として『アトム・スイミングスクール』も、経営していたのではないでしょうか。
トライアスロンは、水泳・自転車ロードレース・長距離走を、1人の選手が連続して行う耐久競技です。
父親・浩一さん自身もトライアスロンの選手だったので、スイミングスクールを経営していても何も不思議ではありませんね。
努力家で一生懸命な性格
村山輝星さんの父親・村山浩一さんですが、とても努力家で一生懸命な方だったと考えられます。
トライアスロンという競技は、先ほども記載したとおり、水泳・ロードバイク・長距離走を一人で連続して行う競技です。
かなりの忍耐力が必要なスポーツですよね。
トライアスロンには体力づくりは必須で、良い成績を残すにはかなりの努力が必要であったはずです。
そんなトライアスロンの選手であり、理事だった父親・浩一さんは、かなり努力家で一生懸命な方だったんしょうね。
さらにそんなキツい競技を娘の村山輝星さんにしてほしいと思うということは、忍耐強い、努力家な子に育ってほしかったのではないでしょうか。
父親・浩一さん自身がトライアスロンを通して、学ぶことがたくさんあったのかもしれませんね。
トライアスロンを始めたのは父親の遺言がきっかけ
妻に託した遺言内容とは?
村山輝星さんの亡くなった父親・村山浩一さんは、『娘にもトライアスロンをして欲しい』という遺言を残していました。
父親・浩一さんの遺言を果たすためにも、村山輝星さんは小学校最後となる2022年夏に、トライアスロンへの挑戦を決意したんですね。
遺言にまで残しているということは、父親・浩一さんはトライアスロンが本気で好きだったんでしょう。
今回娘の村山輝星さんがトライアスロンに挑戦するのを、お父さんは天国から喜んで応援しているのではないでしょうか。
村山輝星のトライアスロンの経歴・実力
村山輝星さんのこれまでのトライアスロン成績がこちらです。
2017年 | 小学1年 | 18位(23人中) |
2018年 | 小学2年 | 28位(30人中) |
2019年 | 小学3年 | 44位(46人中) |
2020年以降は、大会自体が新型コロナウイルスの影響で中止・延期となっていました。
村山輝星さんのこれまでのトライアスロン成績を見てみると、「すごく良い!」とは言えない成績ですね。
村山輝星さんは小柄なため、思うように成績が伸びなかったのかもしれません。
しかしタイムを見てみると、すべてが格段に速くなっているんです。
小学校1年生と3年生を比べてみると、
- 水泳:0.04.37⇒0.03.52
- バイク:0.27.09⇒0.23.14
- ラン:0.06.36⇒0.06.19
かなりタイムが挙がっていますよね。
成績だけを見るとわかりづらいですが、タイムを見ると、村山輝星さんはトライアスロンに一生懸命取り組んでいたことがわかりますね。
さらに子役業との並行だったでしょうし、村山輝星さんは努力家・根性のある人物です。
卒業した小学校は慶應!詳しくはこちら:村山輝星(きらり)は慶應横浜初等部!芸能活動は受験対策だった
24時間テレビのトライアスロンのために、初めて石垣島の海で遠泳に挑戦しました。
これまではプールでの遠泳だったので、波のある海とは全然違うことを実感していたんだそうですよ。
とはいえ、亡き父・浩一さん譲りの努力家で一生懸命な村山輝星さんなので、石垣島の海での遠泳を含むトライアスロンの練習を、かなり一生懸命練習したのではないかと思います。
最後の試合から3年経過していたにもかかわらず、24時間テレビで見事に完走した村山輝星さんの努力に脱帽ですね!