2019年6月21日(日本時間)に行われたNBAドラフト会議で、
八村塁選手が1巡目9位で指名されました!
バスケットボールは中学時代から始めたという八村塁選手。
インタビューでは中学校のコーチへの感謝のコメントをしていましたが、
どのような中学時代だったのでしょうか。
この記事では、八村塁選手の中学時代について、
バスケ部入部やNBAを目指したきっかけについて紹介しようと思います!
八村塁が中学時代にバスケットを始める前は?
八村塁選手は小学校時代に陸上と野球を掛け持ちでやっていました。
素晴らしい身体能力はその頃から頭角を現していて、
陸上や野球でも八村塁選手は将来を有望視される選手でした。
陸上短距離で全国大会
八村塁選手は陸上の短距離をやっていて、
かなり足が早かったようです。
小学校5年生の時の富山県大会では、
100mで13.81の富山県新記録で優勝して全国大会に出場しました。
(第24回全国小学生陸上競技交流大会)
全国大会では、惜しくも準決勝で敗退しています。
記録は、
- 予選2組で3位 13.80
- 準決勝で6位 13.87
野球と掛け持ちでやっていなかったら
どこまで勝ち進んでいたんでしょう!?
剛速球を投げるキャッチャーだった
八村塁選手は小学校時代に「奥田少年野球クラブ」で
野球もやっていました。
ポジションはキャッチャーです。
本来はピッチャーだったそうなのですが、
なぜキャッチャーだったのでしょうか?
その理由は、八村塁選手の投げる球が速くて重いため、
同級生が誰も球を捕ることができなかったからなんだとか!
とんでもないですよね!
チームでは4番を任されていて長打はもちろんのこと、
足も速かったので内野安打もかなり打ったんだとか。
その能力は当時のチームの監督も有望視していて、
将来はプロになると思っていたそうです。
しかも普通のプロではなく、
プロの中でも頭一つ出たプロ選手に!
メジャーリーグもありえるとも思っていたそうです。
野球を続けていたなら、
とんでもないメジャーリーガーが誕生していたかもしれません。
そんな八村塁選手にアクシデントが襲います。
小学校6年生の夏頃に股関節を痛めてしまいます。
原因は成長痛。
結局、八村塁選手は野球に復帰できないまま卒業することになります。
このことで八村塁選手は中学校でも野球を続けるか、
迷うことになります。
八村塁が中学時代にバスケットを始めたきっかけ
八村塁選手は富山市立奥田中学校に進学します。
ここで八村塁選手はバスケットボール部に入部するわけですが、
いったいどのようないきさつで入ったのでしょうか。
NBAドラフトインタビューの場で八村塁選手の話に出ていた恩師が
重要な役割を果たされます。
恩師の坂本穣治コーチは小学校時代から狙っていた!?
八村塁選手が奥田中学校に入学する頃には、
股関節の成長痛は治っていました。
ですが、野球を続けるかどうか迷っていた八村塁選手。
5月の連休頃になってもどの部活に入るか
決めかねていました。
そんな八村塁選手に目を付けていたのが、
奥田中学校バスケット部コーチの坂本穣治さんです。
坂本穣治コーチは八村塁選手のことを小学校の頃から
知っていたんだそうです。
八村塁選手がまだ部活に入っていないことを聞き、
坂本穣治コーチが動きます。
坂本穣治コーチは八村塁選手と同じ小学校出身で
バスケ部に入部が決まっていたクラスメートに、
八村塁選手を練習に連れてくるように頼みました。
果たしてどうなるのでしょうか??
級友のしつこい勧誘に負けて入部
八村塁選手が言うには、
クラスメートからの勧誘はかなりしつこかったんだそうですw
2週間くらい毎日
「バスケやらない?練習来て、とにかく1回来て!」って感じで。
八村塁選手は何度も断ったんだそうです。
それでもクラスメートは勧誘に来るので、
最後にはその熱意に負けた八村塁選手。
練習を見学しに行くことにしました。
勧誘したクラスメートはだめもとで誘い続けたそうなのですが、
この粘りがなければNBA選手八村塁は存在していなかったでしょう。
初めて見に行った練習では、見学だけと思いきや、
八村塁選手はいきなりプレーさせられました。
八村塁選手の家には元バスケット選手の父親の影響なのか、
バスケットボールがあったそうです。
遊びでドリブルをついたこともあったそうなのですが、
全くバスケットをやったことのない八村塁選手。
素人同然のプレーですが、
坂本穣治コーチもすごく褒めてくれますw
これで気を良くした八村塁選手は、
中学校時代をバスケ部で過ごすことになります。
坂本穣治コーチの作戦大成功です!
八村塁は中学時代のコーチの影響でNBAを目指す
人一倍の練習と努力で上達
八村塁選手は中学時代からバスケットを始めたため、
ミニバスの経験もなく、初めは大変だったようです。
さすがの八村塁選手選手でも身体能力だけではプレーはできず、
中学校2年生の夏になってようやく試合の半分に出場できるようになります。
坂本穣治コーチによると、
八村塁選手は本当に熱心にバスケットをしていたそうです。
練習は真剣にやることはもちろんのこと、
少ないバスケット経験をカバーするために、
一番早く練習にきてシュート練習を繰り返しました。
また、自分のできないプレーは積極的に仲間に聞いて
教えてもらっていたそうです。
陸上や野球ではエリート選手だった八村塁選手でしたが、
変なおごりはなく、謙虚な姿勢で練習していたんですね!
このような姿勢で練習していけば上達しないわけがありません。
もともと高い身体能力を持っている八村塁選手ですので、
めきめきと上達していきます。
チームは全国大会に出場するほど高いレベルでしたが、
決して八村塁選手のワンマンチームではなかったそうです。
むしろ坂本穣治コーチが言うには、
おとなしく控えめだったんだとか。
八村塁選手の運動能力の高さと理解力の早さは
中学校時代のこの頃から抜群だったそうです。
コーチがNBA意識させたのはなぜ?
八村塁選手がNBA選手を目指すきっかけは、
中学時代の坂本穣治コーチの指導が大きく影響しています。
坂本穣治コーチは練習でも事あるごとに
「NBA」という言葉を使い続けたんだそうです。
そのわけは、八村塁選手にバスケットを楽しんで興味を持ってもらって、
バスケットを辞めないようにするためだったんだとか。
中学時代の八村塁選手がバスケットボールを軽々つかむ様子を見て、
坂本穣治コーチが「NBA選手みたい」と何気なく言った言葉が始まりでした。
初心者だった八村塁選手は入部当初は上手くいかないことばかりだったため、
坂本穣治コーチは八村塁選手がバスケットを嫌いになることを心配していました。
さらに、八村塁選手が色々な競技を経験していることから、
坂本穣治コーチは八村塁選手がバスケットを飽きてしまうことも心配していました。
そのため、NBAの試合の映像や雑誌を見せたり、
NBAプレーヤーの名前を挙げてプレーを真似させたりしたんだそうです。
坂本穣治コーチはこのとき実は、
八村塁選手が本当にNBA選手になるとは正直思ってなかったそうですw
ですが、坂本穣治コーチの夢のある将来を見据えた指導が
八村塁選手の高いモチベーションに繋がったのですね!
八村塁は中学校時代に全国準優勝して強豪高校へ
高いレベルで活躍
八村塁選手は中学校2年生で身長が180cm、
中学校卒業時には190cmあったそうです。
これで素早い動きができるのですから、
中学時代から凄かったことが想像できますね。
八村塁選手が中学校2年生の時の2011年9月には、
日本バスケットボール協会主催のU-14合宿に参加します。
その時の選出メンバーは約30人。
合宿明けに坂本穣治コーチが上手い人がいたかどうか聞いたところ、
八村塁選手は「自分は3番目くらいに上手かった」と答えたんだとか。
そして、八村塁選手が中学校3年生の時に北信越の代表として、
埼玉県で行われた第42回全国中学校バスケットボール大会に出場します。
八村塁選手は予選リーグ2試合と決勝トーナメント3試合全てに出場。
決勝まで勝ち進みますが、決勝の西福岡中学校(福岡県)には
72対55で敗れてしまいます。
前半は26対25で1点差を追いかける展開だったのですが、
相手エースの活躍でその後引き離されて惜しくも準優勝。
八村塁選手は奥田中トップの20得点をあげて、
この大会のベスト5に選出されました。
NBAの夢は高校へ
八村塁選手に対しては多くの強豪高校から誘いがありました。
坂本穣治コーチは、話の場を設けて
スカウトに来た指導者と八村塁選手の親と話し合ったそうです。
八村塁選手のNBAの夢を叶えるために、
将来アメリカへ行けるようにして欲しいと伝えました。
最終的には、宮城県の強豪明成高校へ進学することになります。
そして、八村塁選手は高校進学後もNBAの夢へ向かって努力し続け、
中学時代の恩師坂本穣治コーチの言葉どおりNBA選手となります。
以上、八村塁選手の中学時代についてでした。
八村塁選手のNBAでの活躍が本当に楽しみですね!